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2005-01-28

魚住けいさん 常寂光寺で安らかに……

2004.10.2
 

魚住けいさん
  
  

魚住けいさん(本名・前川美智代)が亡くなられたのは6月26日。(享年60歳) 中村尚司さんからご連絡を頂いてからまもなくのことでした。

7月2日から12日まで韓国からゲストをお迎えしての連続企画「食の自給シンポジュウム」、続いて金芝河さんの「傷痕に咲いた花」出版記念講演会の準備に忙殺されている最中の死の知らせでした。

最後にお会いしたのは4年前。お話したいことがたくさんありました。その機会を持てぬまま時間が過ぎ、今となっては名残惜しさが襲うばかりです。

魚住けいさんのお名前を初めて目にしたのは彼女達が立ち上げようと準備されていた「真夏風−まはえ」設立趣意書の中でした。壮大な構想を事業化しようとする女性達の志しに圧倒されたのを覚えています。その後、石垣島で開催された「パイナップルシンポジュウム」に参加させて頂いたときにお会いしたのが初めてですから、今から9年前の春のことです。

楚々とした風貌の魚住けいさん。農民・地域(島)・農協の島びとたちの関係を創りかえることはできないものか、そして日本の有機農産物を取り扱う団体と島の農民の自立支援に向けた取組みができないか、と熱い想いの中で奮闘されている彼女と2日間同行させて頂きました。

さんご礁の屍骸で埋めつくされた真っ暗な白保の海岸で泣き崩れる魚住けいさん。優しく受けとめられていた家中茂さん。肌身離さず可愛がっているハムスターと戯れるご子息吹生君と打ち寄せる波際でしばらくの時間を過ごしました。

あの日の集会は何だったのか?その後の活動の中で問い返すことがたびたびあります。「地域自立」「経済自立」‥‥‥とは?と。魚住けいさんとお話したかった。あの日から‥農民が変わったであろうことを。そして、私達が諦めては前進できないことを‥‥。残念です。

10月2日京都・嵯峨野・常寂光寺で100日法要と納骨の儀が営われ、参列させて頂きました・

その時の様子をお伝えいたしましょう。
  

「女の碑」の前に立つと志縁廟のお堂が観えます
  

水俣病の悲惨な現状を一人芝居で訴えてきた砂田明さんの記念碑
  
吹生君 19歳
  

家中茂さんと吹生君
  

納骨を終えほっとされた真夏風のスタッフの皆様
  
金木犀の香りが漂っていました
  

7月10日 沖縄で執り行われたお別れの会で読み上げられた中村尚司さんのお別れの言葉をご紹介いたします。

魚住さん

あなたは琉球弧をめぐりながら、南方アジアを北東の日本列島につなぐという、途方もなく大きな事業を私達に残して、忽然と去ってゆきました。

1970年代の末から80年代の初めにかけて、スリランカで暮らしていた私に玉野井芳雄先生から、「白保の珊瑚礁を破壊する石垣空港建設阻止に取り組んでくれないか」という趣旨の国際電話が、たびたびかかってきました。

その玉野井先生が琉球弧を去った年に、美智代さん(魚住けい)、あなたが青珊瑚礁の写真の束を持って私の前に現れました。

まるで玉野井先生の身代わりのように、「石垣空港建設阻止運動を手伝ってくれないか」といいます。

その写真を抱えてロンドンに飛び、フレンズ・ホールの集会で500人の群集に訴えた日を未だに覚えています。

玉野井先生のもとで学んだ熊本一規さんも白保に通い始め、共同漁業権の理論を手がかりに、石垣空港建設阻止運動を支えてくれました。

そのころ、私は人びとの活動を結ぶ商業の意義を、さまざまな角度から考えていました。

被差別部落出身の魚住さんも、白保で天然モズクの流通にたずさわりながら、稲作文化から排除された日本列島の下層住民と水田農業に依存しない琉球弧住民の将来を重ねて展望していました。

「日本列島が新田開発のような土木建設に夢中になっていた中世から近世にかけて、琉球弧では商業活動により中国や東南アジアとの交流を深めた。

古琉球では商業が、独自の文化を育む母体であった」という話に、あなたは目を輝かせていました。

日本列島における土木加熱時代を経験しなかった琉球列島の八重山では、近年まで住民相互の助け合い制度が機能していました。

琉球弧、わけても八重山民衆の豊かな生き方は、キビもパインもない時代が他地域との間に永続する多角的な交流 を深めてきました。

その琉球王国時代に思いを馳せながら、魚住さんは新しい流通のあり方を求めて、1994年に京都市左京区岩倉の一角に、有限会社「真南風」を設立いたしました。

おなじ頃、朝鮮半島の詩人金芝河(キム・ジハ)さんは、現代社会において価格だけを頼りに再配分してきた市場経済を再検討し、その聖化が必要であると説き始めます。

単に自己の持つものを相手が持たず、相手の持つものを自己が持たないという原初的な商業から、双方の文化を豊かにするための互恵的な品性の高い交易に昇華することの重要性を強調します。

それは女と男の関係が「古事記」の記述するような「成り成りて成りあわざるところ」を「成り成りて成り余れるところで刺しふたぎ」子どもを生むだけの生物的な関係から、霊性を備えた品性の高い人間的な関係に向上する必要と重なります。

魚住さんが目指した沖縄物産の流通も、有無相通ずるだけのありきたりの商業ではなく、琉球弧の文化を日本列島や東南アジアに結ぶ役割をも引き受ける聖化された市場経済でした。

美智代さんが築こうとしてきた男女関係同様に、有限会社「真南風」が獲得しようとした「聖なる市場」も決してやさしい目標ではありません。多くの困難が待ちうけ、大きな障害物がたちはだかっています。

それから10年もの長い歳月、魚住さん、あなたはまるでシーサーのように、昼夜を分かたず奮迅の働きをしてきました。老残の日本列島に、はるかな琉球の真風を送り続けてくれました。

さぞかし疲れたことでしょう。どうぞ安らかにお眠りください。

残された私たちも、あなたの「夢の力」を受け継いで、ささやかな活路を開いてゆきましょう。

 2004年7月11日

中 村 尚 司 


◆喪主 家中茂さん、お別れの会代表 夏目ちえさんからのお手紙をご紹介いたします。

魚住けい(本名・前川美智代)は、6月26日永眠いたしました(享年60オ)。

京都自宅での密葬の際も、また7月11日那覇で執り行いました「お別れの会」においても、多くの方々にお心をお寄せいただき、真にありがとうございぎした。

なかでも彼女があれほどに愛した沖縄の方々に温かく見送られ、さぞかし幸せなことであったろうと思わずにいられません。

十代の「ベ平連」の活動からはじまって、金武湾、白保、マーシャル、スリランカとつながる彼女の活動の軌跡のなかから生まれ、その祈りと願いを形にした「沖縄手ヌ花・食と工芸 真南風」。それは、「設立趣意書」にございますように、まだ見ぬこれから出会う人々への信頼を礎に、尊い農作業の成果を送り届けることをとおして、社会に根を張り、大地大海と生きることを希求した、精神の運動でありました。

病床において過ごした最後の日々も、いま在ることへの感謝に満ちたものでした。そうした感謝の念から、「こんどまた生まれてくるなら、天使になりたい」と、天空から静かに降り注ぐ光のように、この世の至るところに働いていたいと願っておりました。

京都に暮らすようになって20年余り、なにかにつけご相談しご支援いただいてきた、嵯峨小倉山・常寂光寺・長尾憲彰様、憲佑様のお世話になって、「志縁廟」に祀っていただくことになりました。どうぞお近くにいらした時は、この縁深く美しいお寺にお立ち寄りくださればと思います。

生前のみなさまのご厚情に、心から感謝申L上げます。

 平成16年8月

喪   主         家中  茂 
「お別れの会」実行委員長   夏目 ちえ 
 

 
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