2005-05-06
メッセージ


メッセージ

貴生活協同組合の総(代)会のご盛会を祝し、心から連帯のご挨拶を申し上げます。あわせて皆様方のご活躍に深く敬意を表します。

今年度、エスコープ大阪は創立35年を迎えます。この間、私たちの生活と地域社会を「食べる・生きる・暮らす・働く」という視点で捉えなおし、組合員の生活の場と生協運動の接点のあり方やその拡がりを具体的に構想し、組合員、職員ともに意欲的に取り組んでまいりました。

記念すべき節目の年度開始にあたり、設立当初からの願いでありました近郊酪農原乳による低温殺菌牛乳の容器をびん化して供給実現を果すことができ、今年度から始まる第5次中期計画の具体化に弾みをつけております。

21世紀の指標は、環境保全を主軸とした国境なき地球市民の世界です。「京都議定書」発効によって、温室効果ガス削減に向けた取組み強化が求められています。我が生協では、市民一人ひとりが繰り返し使うびん容器のリターナブルの利用と回収に参加してまいりましたが、「京都議定書」発効に伴い、全国の生協陣営がこの仕組みに参加されますことを願って止みません。

この春、徳島市鳴門にあります「賀川豊彦記念館」を訪問する機会がございました。

展示の中に、ブラザーフットエコノミック(友愛の経済)の提唱として、協同組合は階級間にのみ行われるべきものではなく、国民のすべてが利用すべきものであり、それはさらに国際間にも用いられるべきものである…、と記されておりました。昨今の報道で話題となっておりました、株価操作による一部のひとだけの利益を追い求める世界ではなく、私達は「友愛の経済」によって、協同組合が地域・世界にとって必要不可欠な存在として期待され信頼されていることを忘れてはならないと強く感じた時でした。

生協間や大手量販店との競合を避けることは出来ませんが、地域に密着した生協として「組合員の組合員による組合員のための生協」であることを忘れずに、組合員、職員と共に進んでいくべき決意でございます。

  2005年5月吉日

生活協同組合 エスコープ大阪 

理事長  山 口 節 子  


はじめに

理事長  山 口 節 子 

1970年に泉北生活協同組合を泉北ニュータウンに設立してから、今年で35年目の節目を迎えます。1999年には住吉生活協同組合と合併し、生協名をエスコープ大阪と改め、設立時には780名だった組合員も今日では24,333人になり、しっかり地域に根ざした生協となりました。

設立当時の本物の牛乳がほしいとの組合員の願いは、節目の35年目に近郊酪農原乳による低温殺菌びん牛乳の供給実現を果すことができました。びん牛乳には、生協活動に取り組んできた大勢の組合員・職員・生産者の長年の想いが込められています。一人ひとりの組合員が「いのちを守り育む私達のびん牛乳」を、生協活動を通して語リ続けていかねばなりません。

この35年間、私たちの生活と地域社会を「食べる・生きる・暮らす・働く」という視点で捉えなおし、組合員の生活の場と生協運動の接点の有り方やその広がりを具体的に構想し、中期計画(第1次〜4次)として掲げて果敢に取り組んできました。第5次中期計画案討議(2005年度〜2007年度)は昨年6月から開始しました。

外部講師4名(桃山学院大学教授・津田直則さん、生活クラブ東京専務理事村上彰一さん、ナヌンセ韓日市民交流協議会・キム・ピョンジンさん、大阪経済大学助教授・伊田広行さん)を迎えた学習会では、エスコープ大阪がすすめてきた「地域に開かれた生協」としての活動について客観的な角度から評価をいただき、更には多くの課題提起を受けました。

お互い様の延長にあった班共同購入から個人購入へと組合員構成比率が逆転してきたことは、女性の自立と解放を目指してきた生協運動からすれば必然的な帰結であるといえます。このことを理解した上で、改めて意志ある組合員によって、新たなお互い様の仕組みづくりがすでに始まっていることへの着目が必要です。25人班の専任当番や個人配達ワーカーズはその先駆けです。

個と個を繋ぐヒントは、ひとりの組合員の気付きの中にあります。その萌芽を見出し、葉を繁らせ花を咲かせる協働の力を発揮できるのは、組合員による地域委員会という仕組みがあってならではのことです。エスコープ大阪はすでに21年前に地域委員会主権を柱とした街づくりを掲げています。2005年〜2007年第5次中期計画では、「いのちを守り育む」取組みを事業と活動を通して強め、「夢のある活きた地域づくり」を構想し、「生協が地域で果す役割」「地域における生協像」を具体的に形作ります。

昨年度から開催している「いのちを守り育む」連続講演会は、エスコープ大阪が35年間に養ってきた生協運動の視点を凝縮し、未来に向けてあるべき地域社会の姿を描こうとする企画です。組合員にだけではなく、地域社会に向けて公開し問いかける企画です。

私たちは「食・環境・暮らし・働く」について次世代の時代まで思い描き、今、わたし達がしなければならないことは何かを常に問い返してきました。私たちが気付き協同して自主的に取り組んできた暮らし方の見直しは、いまだ少数派であるとはいえ、20世紀に起こしてしまった環境破壊に対する私たちからの具体的な提案であり、「いのちを守り育む」行動そのものです。「開かれた生協」企画の趣旨にそって今年も多様な企画を開催します。

21世紀の指標は、環境保全を主軸とした国境なき地球市民の世界です。そのひとつが2月16日に国際法(条約)として発効した京都議定書です。日本は2008年から2012年の間に、1990年比で6パーセントの温室効果ガス削減を目指します。

この目標を達成するためには、市民の一人ひとりが自分の課題として取り組むことが求められます。繰り返し使う容器の再利用・リターナブルびんは、二酸化炭素削減に大きく貢献できる取り組みのひとつです。京都議定書発効を契機に、組合員拡大呼びかけの重要ポイントとなります。びん牛乳を筆頭にして積極的に働きかけていきます。

もうひとつ、遺伝子組み換え作物に反対する国境なき地球市民の連帯が、各国での遺伝子組み換え作物を阻止する大きな役割を果たしています。カナダ・オーストラリアなど輸出国と、自給率が低い日本や韓国など輸入国の市民・農民の連帯行動(署名など)を今後も続け、一方では国内栽培・国内開発の監視網を強化し、またGMOフリーゾーンエリア(遺伝子組み換え作物栽培拒否地域)の広がりを支援します。

7月にはカナダで遺伝子組み換え作物反対に取り組む農民パーシー・シュマイザーさんが再来日されます。GMO推進派が巻き戻しを図る中で、「いらない! 食べない! 作らない!」遺伝子組み換え作物・食品反対運動の強化を図ります。

1960年代のカロリー換算自給率79パーセントが、現在では40パーセントと先進国で最低の位置にあります。2001年に国が作成した「食料・農業・農村基本計画」の中間見直し・新基本計画が3月に発表されました。現在の自給率40パーセントを45パーセントにする目標が5年間先送りされ、2015年に達成することなりました。

エスコープ大阪の産直運動は、1961年の農業基本法が招いた農畜産生産現場からの悲鳴に共鳴することでした。「農業の近代化」政策による化学合成農薬や化学肥料を投入した農地は荒廃し、農民自身が農薬の被害者となる事件が多発しました。

農業の近代化に疑問を持ち、自ら農法を作り生産物の価値を消費者に問いかける生産者が現れてきました。私たちはその問いかけに呼応してきました。和歌山県のみかん生産者・豊共園、山形県のお米生産地・上和田・立川、徳島県・石井養豚場などとの独自の生産基準・独自の物流と消費の仕方が、エスコープ大阪の産直運動の中心核となりました。

食は、いのちを繋ぐ自然界とそこに携わる人々からの授かり物です。食の安全保障確保は国内農産物の発展と保護なしにはあり得ません。私たちは生産地と消費地に物と想いが行き交う交流に重点をおき、伝統的な食生活から学ぶ文化を広げていきます。その中でも、主食であるお米の利用結集を最重要課題として取り組みます。

2002年から開始した韓国赤唐辛子の交易を通し、韓国において「食の自給」「遺伝子組み換え作物反対」「学校給食」「女性の自立」「協同組合運動」を課題に掲げて取り組む団体や生協との交流研修への関心と理解が広がっています。継続した取り組みへと発展させていきます。

2000年から開始された介護保険制度では、それまでの措置制度から個人の選択権が認められることによって介護の社会化が確立されると期待されてきました。しかし、5年後の見直し内容が明らかになる中で、その期待も揺らぎ始めています。今のまま改定が進めば、介護の社会化から乖離した仕組みになりかねません。エスコープ大阪では、介護保険制度改定については支援費制度とともに、重大な関心を持って意見を発信します。

今年度中には支援費デイサービス事業を開始します。「大きく育て福祉の樹」を構想してから9年、共に暮らす街に貢献するしくみの一つである支援費デイサービスの幹が「大きく育て福祉の樹」に加わります。

「大きく育て福祉の樹」構想の具体化は生協だけでは実現できません。暮らしやすい街に必要なモノやコトを沢山作り出すために「街づくり夢基金」が創設されました。市民による市民団体育成事業です。基金創設の最初の呼びかけ人となったエスコープ大阪では基金の活動を広く知らせ、まずは組合員の基金参加者拡大が課題です。「街づくり夢基金」が果たしている役割の理解を広める取組みを展開します。

  2005年4月

生活協同組合エスコープ大阪  
第37回通常総代会議案書  
冒頭「はじめに」より  



“女だから” “男だから” はもうやめよう!

〜大阪府生協連ジェンダーフォーラム協議会から〜

「私が思う“男女共同参画”」 

「男女共同参画」‥‥なんと近寄りがたい表現でしょう。国や自治体が先頭に立ち、国民の中に浸透させようとしている「男女共同参画」社会の実現。これはお国が掲げた法律用語のスローガンの様ですね。お国ができることは法律をつくり、違反するものを法で裁くことでしょうか。これはこれで大切なことです。頑張って頂かねば困ります。

しかし、もっと別の表現はないものでしょうかね。たとえば、大胆に「人・感性発掘作業」とか如何でしょう。ふざけないで! とお叱りが飛んでくるのでしょうか。いいえ、生協の理事や役職員の皆様ならば、賛成! と賛同のお声を頂けるのではないでしょうか。生協で使う表現として「男女共同参画」はあまりふさわしくない、というのが日頃から思っていることです。

エスコープ大阪・理事長
山口 節子

エスコープ大阪では、運動と事業の両輪を動かせるために性別を超えた人と人の協力が当然のこととして存在している、と体験を通して学びました。しかし、当然だということを理解するまでにしばらくの時間と失敗体験が必要でした。

/加入動機:ご近所の方に誘われ、断われなかった。/面白いと感じた時:事務所を訪れた際、食堂で職員が自分の食器を洗っている姿をみた。夫ではなく、私の名前で加入手続きをした。/生協を続けている理由:自分達で考え、組み立て、行動し、生き方(暮らし方)までも変える力を提供する生協の醍醐味/ (私の生協加入そして今)

極めて平凡な女性だった私がエスコープでの体験から、自分の責任で動き、自分のことは自分でする、会議の場で発言する。それまでは男性の仕事女性の仕事と区分し、誰かの指示を仰ぎながら生きていましたので、ご近所の組合員と議論をするのにはかなりの勇気が必要でしたね。数多くの話し合いを重ね、次から次へと具体的に実現されてくる様は驚きの連続でした。私が体験してきたことは特別のことでありません。

「考えること」「発言すること」これらは男・女に関係なく、自分と社会にしっかりと向き合うことなくして出来ないことを生協で学びました。生協の仕組みとは、生協に関わる人たちの自発性が何よりのエネルギーです。表に現れていない自発性に気が付き、次の行動に移る機会をどのように提供できるのか。昨年11月設立した「街づくり夢基金」は、社会に関心を持ち、社会と関わっていたい市民を市民の100円基金によって応援する仕組みです。エスコープから発信したワーカーズコレクティブ設立支援や基金の仕組みが、地域社会で大きく育てられていく21世紀の感性育成こそ生協の果たす役割ではないでしょうかね。

 2004年10
  



地道な地域活動の果たす役割

山口 節子  

生協運動の柱として常に掲げてきたひとつに、お米登録利用呼びかけがあります。この1年間、生協米として私達が食べてきたお米の総量は、1993年最高時の815.4トンには及びませんが、512トンの利用結集となっています。

冷夏に見まわれた昨年、各地のお米作柄報道と共に「不作」の言葉が行き交いました。収穫されたばかりのお米が、品不足による高値販売を狙った何者かによって、農家の倉庫から盗難される事件へとエスカレートし、社会不安をあおる一因ともなり、一般市場での価格は高騰していきました。一方、きらり・お米4産地のうち、3産地からは価格据置での取り扱い提案をいただき、さらに量的な確保の面でも他への販売米を生協用に確保していただくことができました。

「平成の大凶作」といわれた1993年。それまで自給で賄っていた主食のお米が不足し、国の備蓄米政策の過ちによって緊急にお米を輸入する措置が行われました。その後、貿易のグローバル化・自由化推進を目指すWTO体制下の枠組みが強化され、1995年ウルグアイラウンド合意に伴うミニマムアクセス受け入れに伴い、お米の輸入は40万トン段階的に現行の80万トンへと増大し、唯一の国内自給作物の砦は崩されました。

当時、組合員は激励のメッセージを産地に向けて発信し、とカンパ金をお届けしました。有機米づくりに励む生産者の痛みを分かち合い、持続したお米作りを願ってのことでした。今回の不作の際には、安定価格と量確保実現を果たす、という形で生産者・組合員相互の信頼関係が確認され、一層の提携関係強化へと向かうことになりました。

転作奨励耕作への切り替えもありますが、稲作耕地の4割近くが休耕田となり、放棄田が随所で見られるようになっています。農耕文化によって育まれた生活の知恵が忘れ去られ、水田がもたらしてきた環境保全も崩れ去ろうとしています。昨年のお米結集量512トンを耕作面積で表すと、反(10アール)収量8俵として9400俵。117.5ヘクタールとなります。甲子園球場グランド面積が1.47ヘクタールですから、甲子園球場グランドの79.9倍、泉北ニュータウン桃山台118ヘクタールとほぼ同面積の水田で耕作されたお米を食べたことになります。

生協で取り扱う産直米の耕作面積が具体的に数字となり、広さを実感できた時に思い浮かぶ光景。そこには、春の田起こし、苗床づくり、田植え、田の草とり、夏の開花、秋の色づきそして収穫。一面雪に覆われた冬の田圃、裏作野菜づくり、交流、そして地域の祭りでしょうか。田圃を満たす水、田圃に住む生き物達、田圃を渡ってくる風。その中で生まれてくる小さな生き物たち。お米の生産過程が見え、そこに暮らす人々の文化・息遣いまでも伝わってきます。たとえ離れた産地・消費地であっても、それぞれの村・街で生きるひとびとの笑顔が浮かぶ信頼関係。この信頼関係が安心となり、安全な食へと繋がっていきます。

主食お米を通して、伝わってくる農業・農村の現実。そこには「食べる・生きる・暮らす・働く」というテーマが潜んでいます。お米・農業・農村だけの問題ではなく、街に住む私たちのテーマでもあり、業種の違いを超えた生産者共通のテーマであることが、生産者や組合員の相互交流を通して共有されつつあります。一つのモノ・コトから何を想像し、生協という関係づくりを大切にする運動体組織から何を創造できるのか。

地域生活に根ざした生協運動を進める際に、今、最も大切な視点は、私達を取り巻く社会が、多国籍企業の思惑で動くことへの疑問、その対抗行動としての地域運動であり、有機農業運動をしているという自覚です。自給率40%の日本では、遺伝子組み換え作物による花粉汚染や種の独占に対し、一人ひとりの生産者・消費者の小さな力を一致団結させた反対行動が、多国籍企業の独占を阻止できる大きな力となります。輸入大国である日本での反対運動が、アジア・アフリカの国々への歯止めと成るはずです。多国籍企業による独占に反対する世界の人々との連帯行動を視野に入れた地域運動が、重要な要素となります。

戦争は人の命を奪い、大地を興廃させます。戦争は、取り返しのつかない環境汚染を撒き散らします。持続可能な農業をも破壊します。遺伝子組み換え作物・種の独占は、農民による選択権を奪うことです。選択権を奪われた農民達には、持続した農業を営むことが出来ません。持続可能な農業を奪う事、それは戦争に匹敵することです。地域に暮らすひとびとの生活を大切にした運動を進めてきた私達は、世界の戦争に反対します。自衛隊の海外派遣に反対します。遺伝子組換え作物・種の独占に反対します。

3年間の議論と検討を重ねた「街づくり夢基金」は、「食べる・生きる・暮らす・働く」というテーマを、生協だけからの視点ではなく、生協が存在する地域・街に住む人々の視点から想像すると何が必要なのか、創造すると何が出来るかを問い続けたひとつの到達点です。そのコトやモノが、地域において何にも勝るセーフティネットとなり、暮らし続けたい街になっていくはずです。基金への参加者増員があって活かされる基金です。設立間もない基金への参加者拡大を担うのはエスコープ大阪の日常活動なしには有り得ません。地域委員会の自由な発想による日常活動から基金の必要性を理解し、生協から発信された新しい仕組みの基盤づくりの促進力となりましょう。生活者として市民力を育ててきた34年間の実績と信頼による情報発信と行動で基金への理解を広げ、大きく育てていきましょう。

生協連合会・きらり設立から1年半。生協が運動体であることは、すでに述べましたが一般市場流通に対抗する流通を責務としています。物に込められた想いが、適正価格で評価されるのでなく、安価な輸入品や大量生産品によって評価される現状の中で、私達は生産者価格を下げるのではなく、生協業務である物流コスト改善を図ることで厳しい価格競争を乗り越えようとしています。生協と生産者の提携は、物流改善は、きらりとして対策を立てていきますが、エスコープ組合員の利用増加と組合員拡大があってこそ物流改善効果が、活かされることになります。新年度の重点方針である利用推進・組合員拡大を確実に達成していきましょう。

2004年4月エスコープ大阪 第36回通常議案書 はじめにより


 心に残る往復メール              山口節子

今年は「国際コメ年」だそうな。知らなかったなぁ…。国連食料農業機関(FAO)が開始宣言の中で、「コメは全世界で人間の栄養と食料安全保障に大きな影響もたらす」と指摘……と報道する元旦紙面に出会った。文中のコメ?…こりゃなんだ!。生協運動に関わり、産地でたくましく生きる農民に出会った。それまでの食べる「米」から、頂く「お米」という表現を使う様になってきた今、「コメ」とカタカナ表現される宣言文が素直に受け入れられない。

恐らく英文の宣言文だったはず。「国際コメ年」日本語に訳した日本人の感性が気に入らん! FAOに関わる職員や通訳に関わる人間が、都会に住み、農家を知ることなく生きているならばますます気にいらん! ……では対案をご披露せねば「国際お米元年」「自給お米元年」「稲作文化元年」「 etc……」と訳してみたい。元年とはその年だけではないという意味合いを込めている。自給と入れたのは、戦争や減反や遺伝し組換え汚染によって、農民が大地を耕すことが出来ない世界を拒否したいとの想いから。最後の稲作文化元年は、お米にまつわる祭事、食文化など稲作文化圏のひとびとの暮らしが世界を救うはずだと確信! するからだ。

「国際コメ年」終わってみれば……農家は稲作を放棄し、都市生活者の食卓には輸入米がのせられていたということがあってはならない。

エスコープはこの二十数年間、「自給お米元年」「稲作文化元年」を実践してきたと自負できる。産直米産地交流に参加した組合員、職員は、田圃で泥だらけになりながら、生産者の想いを体に染み込ませて街に戻ってくる。生協のお米を食べようやんか! 単刀直入粗っぽい語りかけであっても、体に染み込ませた田圃の泥の感触は、粗っぽさを素直な表現として伝える魔力にかけてくれた。思い当たることがありませんか? そう、山形の田圃に入ったあなた、あなたのことですよ! 滋賀の田圃に入ったあなたも。

最後に、昨年末、心に残る言葉を発信してくれた山形のうら若き女性のメールをご紹介したい。主食であるお米に込められた農民の想い。彼女達からの発信を受け止める感性があるかどうか……生協に関わる理事、職員に問われている。感性は自己努力という自主性の中で育っていくものです。

 

今年2月、山形県高畠町置賜興農舎・小林亮さんからお招き頂き、研修会講師としてお邪魔させて頂きました。 そこで出会った和香子さん 農民として米づくりをします!  と宣言した爽やかな彼女の顔が素敵でした。 そんな和香子さんにフィリピン訪問にご一緒しませんかとお誘いしました。
そして、昨夜届いたお返事メール 掲示板で公開したいとのお願いにお返事がきました。


和香子さん
お返事ありがとうございます。
先日、岩手でお父様にお会いしました。
その際、今年初めて米づくり一年生農民の成果は? とお尋ねしました。
大笑いしながら………
収穫は5俵!
それは
それは
今年の厳しい作柄の中で頑張ったんですね。
山口さんと一緒だぁ。
前向きな事しか考えないんだぁ……
5俵より悪い収穫はこれからは無い。
初めてにしては上出来だぁ…と本人が言ってるんだぁ……
とお父様が豪快に笑っていましたよ。

山口さんと一緒と言われたのには驚きましたが、言われたからには貴方の生き様を気にしない訳にはいかなくなりましたよ。
さて、和香子さんのメールを掲示板に張りつけてもよろしいですか?

大母

山口さん、こんばんわ。
<さて、和香子さんのメールを掲示板に張りつけてもよろしいですか?
とのことですが、かまいません。
2月に大阪に行ったときのことが思い出されます。
いろんな衝撃がいっぱいあったなぁと。

収穫は5俵。
そーなんです。
ちょっとさびしい量でした。その上、味もまだまだ。虫にもやられる始末。

でも、本当にこれからはうなぎのぼりだ! と自分に言い聞かせ、(父親にも言った覚えがあるような)来年を楽しみにしているところです。
それでは、また。 小林和香子

 

山口さんへ

こんばんわ。大変ご無沙汰しております。高畠の小林和香子です。

先日、父親からフィリピンの件について聞きました。せっかくのお誘いですが、今回は辞退させていただこうと思います。

今年1年農業を体験してみて、自分の未熟さに腹立つことばかりです。フィリピンの話を聞いたときから、もし私が参加するのなら、それは自分のことをしっかり、『1人の農民です』と紹介できるようになったときだと心の中で決めていました。だから申し訳ないのですが、私はまだ参加できません。

でも、今年1年農業をやってみて、いろんなことに気づかされました。まず一つ目は、ゆるぎない精神が安全なものをつくり、丁寧な仕事がおいしいものをつくるということ。

二つ目は、私が、過去と未来の間に生きているということ。あたりまえのことなのですが、私が今年収穫できたのは、両親や祖父母、そして先祖の人々が、ずっとずっと土を耕してきたからにほかなりません。だから、私も次の世代の人達のためにも、間違ったことはできないなと、なんだかしみじみとおもったのです。

三つ目は、世界を見る目が私の中で変わったこと。悲しみとして受け止めていたことが、今年は怒りに変わっていました。(理由は当事者となったからです)
そんなとき、人の側にたって思うことの難しさを痛感し、また直面する問題の重さにたじろぎそうでした。問題を正確に理解し、それがささいなことでも行動をおこす大切さを教えられた気がします。

いろんな人々のサポートのおかげで、今年はいろんなことを体験させてもらいました。私にとっては、この体験を来年からいかに経験につなげられるかが重要だなと感じているところです。でも一番に気づいたことは、『農業は楽しい』です。

今年は、暖冬のようですね。(こちらでは、今から来年の冷夏を心配していますが・・・)
それでも、お体にはお気をつけて。またいつかお会いできることを楽しみにしています。

小林 和香子

《WORKーNET No.26 2004.1.16 新春特集号から》


エスペランサ農園収穫祭

農地改革に揺れるネグロス島エスペランサ

2003.10.31    山 口 節 子


信じがたい思いの中でエスペランサへ
                               
2001年1月エスコープ創立30周年記念誌編集方針を巡って議論白熱する中、この10年間の活動記録と10年後の40周年に向けてアジアという視点が重要な位置を占めてくることは間違いない。記念誌として未来に向けた示唆ある内容となるべく、「気づき」のためにフィリピン訪問企画実現を果し,組合員6名・子供1名・生産者2名計9名で訪問したのは2001年2月。ツブラン農場で1泊した訪問団をエスペランサ農園のお母さんたちと少女達が尋ねて来て下さった。

バナナ=ネグロス島では無く、農地改革を巡って元地主と農民達の土地闘争が、地主側の暴力的な包囲網で囲まれ厳しい暮らしの中に有りながら、明るく生きぬく人々との出会いは「改めて自分を見つめ直す大切な気づき」となった。2年後に届いたジョニーの訃報。信じがたい想いの中、生協の仲間達から託されたメッセージを携え、空港に降り立った。

収穫祭当日、集合場所ラカルロータに向かった。ラカルロータは村に行く前に食材の買い出しに行く馴染みの町。プラザの側にはすでに大勢の支援者が集合し、横断幕が張られたトラックやジープに分乗し出発の時を待っていた。懐かしい方々との再会の挨拶もそこそに、彼らと共に砂糖きび運搬トラック荷台に乗り込んだ。

ラッシュアワー状態の中で初めてお会いする方ばかり。大きく揺れるたびに周囲に居る人達に抱きついていくしかない。何時の間にか口ずさんでいた「バヤン・コ 我が祖国」の歌、彼らも口ずさみ始めた。15分間の道のりは瞬く間に過ぎていった。

トラックが止まった先にライフルを構えた人達が…この人たちは何物? ラリーが近づいてきた。彼らは広域警察の人達。警護してくれている人達なので大丈夫!

混雑する中、テントが張られたゲスト席へと向かった。初めて経験する式典の流れに添って、現地スタッフの指示に従い列席させて頂いた。灼熱の太陽が容赦なく照り続ける中で、汗があふれ出てきた。悲しみにくれる家族を目の前にし、ふつふつと怒りが込み上げてくる。幼子二人を抱きしめる女性達の悲しげな姿を正視すればするほど、涙をこらえ様とする体が震えだし、その場に居た堪れなくなっていた。


虐殺現場に立っていたのだ

収穫祭が終わり、村を歩いてみた。灼熱の太陽が柔らかい夕焼けの彩りへと変わって行く中、砂糖きび畑を見渡す一角でリトの説明を聞いた。祭が執り行われた場所がジョニーが倒れた地だと聞かされた。3月6日昼休憩を前に、農民達150名(その中には女性や子供たちも居た)は畑で草刈り作業をしていた。

警備していた広域(郡)警察3名、地元ラカルロータ警察6名。地元警察には昼休憩をするようにと指示が出され、その場には広域警察3名だけ。そこに元地主側労働者・私設ガードマンがトラック5台、トラクターに分乗して現れてきた。その数250名。囲まれた農民達は完全包囲網の中。無抵抗の農民に放たれた銃弾…。明らかに元地主の作戦の中で行われた虐殺行為。

やっと納得できた! セレモニーが続く中で、居た堪れなかったのは大地からの叫びだったのだ……と。テントからそっと抜け出し、村人・支援者の中に身を置き、考え込んでいた。日本で訃報を聞き、この場所に来た日本人として、永年の闘いの奥に秘められている深い悲しみを全て理解することは出来ない。彼らの悲しみ、痛みを受け止められるのか。また伝えられるのか……。

リト(委員長アンヘリート・エスタマ)の説明を聞きやっと納得できた。突き動かされるままに動き回ったのはここで何があったのかを知り、そして残された農民を見守ってほしいと願うジョニー達からの伝言が私の中に響いてきたのだ! と。感じたことを伝えるべくして来たのだ。

ジョニーはリトの甥という関係であり、亡くなる前日まで彼が運転するバイクの後に乗り、元地主側との闘いの先頭に立っていた。「ボディーガードでもあったジョニーは僕の身代わりとなって死んでいった…」。彼の無念さが伝わってくる。


子供達へのケア

事件が起こった砂糖きび畑の前には小学校があるではないか。子供達が見ていたのだろうか? 3月はフィリピンでは夏休みのはず、…ということは畑で手伝いをしていた子供達が大勢居たということになる。犠牲者が出なくて良かった! しかし、あの日の出来事は子供達の心深くに傷として残っていることだろう。ラリー達の子供達とのワークショップは、心の傷を癒すケアとして続けてほしい。

複雑な思いを抱きながら村の中を歩き出した先に、比較的広い路が通っている。歩きながら気になってきた村の情景。道を挟んで家の構えが明らかに違っている。この一角は倉庫ですか? 何度となく泊ったフィリピンの村の印象とも違っていたので尋ねた。JCNC小林事務局長からの説明では、土地所有権を手にした農民が二分化された。

元地主とともに合弁会社に参加し、砂糖労働の賃金として報酬だけを得る農民達。エスペランサ農園として協同組合を結成し、共同管理の土地で砂糖きび栽培をし、ここで得た収益を積みたて、将来に向けた多様化事業資金、奨学金制度を生み出し、子供達に残してやれる持続可能な農業経営獲得を目指すリタ達。元地主が工事したインフラ整備(水道・電気)がこの路を挟んでエスペランサ農園に参加している村人の一角だけ供給停止されているのです。家の構えの違いは、収入の違いを見せつけるがごとくのあり様です。


月明かりの中で

空き瓶に灯油を入れたケロシンランプに照らされる夜の生活。今夜泊めて頂くニタの家で夜の交流会開催まで休憩。部屋の中まで射し込月明かりの中で休んでいると大音響のカラオケが聞えてきます。交流会が始まった? いいえ、元地主側の農民が毎晩大音響でカラオケを楽しんでいるとか……。
  
収穫時期の10月から1月の3ヵ月間だけが現金収入がある時。収穫を待ち望む村人の歓喜の様子から労働者時代の苦労が伺える。マニラに飛び、農地改革省に直訴して2年。ジョニーの死という深い悲しみと痛みを伴ってやっと獲得した収穫は、追悼の思いが込められている。。月夜に照らされた村人の笑顔がかき消される事態が発生しない事を祈りたい……。
収穫祭で浴びた灼熱の太陽で体が熱り、眠れない中でエスペランサ農園の出来事を考えていると……鶏が泣き出し、朝が早い村人の生活の音が聞えだす中で明けていった。

朝になると聞えてくるはずの水浴びの音がしない……そっと部屋を抜け出した。昨夜、水浴びをしたドラム缶には底にわずかの水が有るだけ。側にあったバケツを持ち出しリタに水場を尋ねた。50メートルほど離れた井戸を教えてくれた。ポリ容器を使って汲み出し、バケツに入れて運ぶらしい。飲み水は別の泉から汲み取って来る。生活に欠かせない電気・水に至るまで元地主によるいやがらせは今も続いている。


エスペランサに想う

  2003.10.7  山 口 節 子

3月6日ジョニーが倒れた大地に十字架が立てられた
子供の背丈ほどだったさとうきびは
太陽の光を浴びて日増しに
大きく成長していった

さとうきびが成長する中
隠れていく十字架
愛するジョニーが消えていく

十字架に添え木が当てられていった
3メートルを超える高さとなった十字架

ジョニーの正義の為に
明日から始まる収穫
収穫まで11ヵ月
ジョニーの温もりが消えて7ヵ月

残された家族・友人達の悲しみが消え去るまでに
計り知れない時が巡っていくだろう

おんなたち こどもたちの笑い声
エスペランサの大地に こだまするとき
十字架の前にはたくましく成長した青年の姿があることだろう


     個人的な経験からアジアを問い返す           2002.12.16/山口 節子

日本語を確かめる老人たち
 「50数年振りに日本語を話しています。私の日本語は分かりますか?」 2000年6月、初めて訪問した韓国ソウルの街で迷子になってしまった私を目的地のホテルまで案内して頂いた76歳白髪の紳士リ・インキュウさんとの会話の中でのやりとり。

 それから1年ちょっと後のこと、またしても「50数年振りに日本語を話します…」
会話の中でまったく同じ言いまわしの表現と出会いました。農都生協の農産物産地・ソウルから2時間ほど離れた陰城(ウムソン)を訪問した時のことでした。70歳台後半の御夫婦が同じように質問されたのです。「私の日本語は正しいですか?」と。

忘れたはずの記憶の中で
 私事ですが、私の連れ合いは父親の赴任地であった朝鮮(現在は北朝鮮)で6人兄弟の末から2番目、山口家の三男として産まれました。終戦末期の混乱の中で父親は収容所で亡くなり、姑と子供6人そして嫁である主人の母親、女・子供計8人と共に日本へ向う手段を探しながらの逃避行。プサンにたどり着いた時に、乳飲み子の末っ子は力尽き死亡。プサンから博多行きの船に乗り、たどり着いた博多は空襲で一面の焼け野原。

 頼りにしていた親類宅も消滅。母親の実家がある甘木市の近くにたどり着くまでに幾多の困難があったのか…。戦後産まれの私が、当時日本へ引き上げる際の混乱を知ったのは、中国大陸に取り残された子供たちの肉親探しの報道番組からでした。戦争に関する事や引き上げ途中そしてその後の話を三男の嫁である私は知らされていませんでした。

幼子の姿に自分を重ねる夫
 子供達が幼児の頃のことです。当時3才の長男に白いリュッサックを背負わせていました。中身は妹達の着替え。幼子3人を連れての移動の際にはお決まりのスタイル。ところが突然、主人から「止めてほしい」と言われたのです。なぜなのが理解出来ず、その後も長男の背中には白いリュックを背負わせていました。

 中国残留孤児肉親探しのテレビ報道を観ていると…自分達も同じように歩き続けた…置いて行かれないように必死になって付いて行った…リュックを見るとその当時のことが思い出されてしまうと朝鮮半島をプサンまで南下してくる時の記憶を語りだしたのです。3歳の幼子に強烈に残っていた記憶。その記憶とともに韓国の話題は、主人の兄弟の集まりではタブーであり、夫婦の間でも触れることが出来ない「パンドラの箱」となっていました。

語り出したアジアの人々の勇気 
 アジア各地では、慰安婦として関わった本人自らが証言を始めたことで「慰安婦問題」が表面化してきた十数年前。戦争という狂乱の最中で繰り広げられていった侵略と破壊。侵略された人々の心の奥深くまでをも傷つけてしまった事実。正直、親の世代がその時代に身を置いていたという事実に、ますます重い気持ちにならざるを得ませんでした。

バランゴン・バナナを介して
 1994年バランゴンバナナの村を訪問する企画が始まり、翌95年から参加させていただいています。フィリピンの村ではおじいさんから聞いたという戦争中の話や老人自らの体験を語る村人との出会いがありました。私達には、返す言葉がありません。フィリピン訪問を決めた時点から覚悟はしていたことです。避けることが出来ない事実として戦争の傷跡に触れる場が来ることを……。沈黙の後で彼らが発した言葉は、「今、このように出会っているのです。これからの関係を大切にしていきましょう」と握手を求めてくれたのです。 

協同組合運動の原点とは
 フィリピンでは9日間に渡ってスタッフと寝食を共にします。JCNC(日本ネグロスキャンペン委員会:バランゴンバナナを通してアジアの連帯を進めるNGO)では農業を基盤に、人々の生命の源である食の自給を図るための支援をおこなっています。その取り組みを理解することがこのツァーの目的のひとつとなっています。

 現状を理解するためには、お互いの国の歴史をたどらねばなりません。スペイン(1521〜1898約380年間)・アメリカ(1898〜1941約57年間)・日本(1941〜1945約4年間)と次々と他国から占領され、弾圧される中で人々の自治権が奪われ、主体的な関わりとは無縁の生き方をせざるを得なかった400年近くの歴史。民主化闘争を経て17年あまり、さまざまな試行錯誤の中にいる彼らは、管理された労働から主体的な労働へと転換する仕組みとして協同組合運動に取り組み出しています。その仕組みによって、自らの意志が反映される農業を営み、食の自給を図っていこうとしているのです。

 私達は生協運動を通してフィリピンの人々と出会い、未来の夢を語り共有することができるようになってきたのです。支援する・されるという関係ではなく、「農と食」のグローバリゼーションが進む中で、私達が住む地域の中で具体的な行動を伴った運動をおこすことの必要性を考えるようになってきました。地域の中にある特徴を生かし合い、持続した取り組みができるようになるにはどうしたらいいのか。

 エスコープは、消費者と生産者の直接的な関係が何よりの財産であり、大きな力となっていたことに改めて気づいてきます。それは協同組合運動に取り組みだしたフィリピンでは生産者と消費者が分断され、流通業者に買い叩かれる現実との格闘、そして村人達が協同の力を集めて市場に売りに行くという販路確保の試行錯誤。自分達が動き出すことから産まれてくるダイナミックなエネルギーに目覚め、「ひとりではできないことをみんなの力を集めて実現する」という協同体を編成していく原点に出会えるのです。

 創設期のエルネギーを多様なかたちと動きにしながら今日まで歩んできたエスコープ。全国の中でも個性的な発展を遂げてきた生協です。組合員・生産者・職員がぶつかり合いながらも今まで培ってきた信頼の上に、今日の生協があります。

 生協に加入した動機が安全な食品の協同購入であっても、本来一人ひとりの組合員は「食べる・生きる・暮らす」という日常の営みの上で生きているのです。食べることだけを切り出して生協を捉えることが時代錯誤であり、組合員の生活実態からかけ離れた生協になっていくことを意味します。すでに「食べる・生きる・暮らす」という私達らしい特徴を持った道標(みちしるべ)を地域に打ち込んできました。これからもいくつ打ち込むことが出来るか。しかもその道標は、グローバリゼーションという瞬時にして世界の動きが反映される解放性という視点を忘れてはいけません。

 私達の街にはすでに多くの外国の方々が暮らしているという事実を見逃してはいけません。共に進むという生協の理念の中に、常にお隣に住む外国の方かだを意識しているならば、過去の時代の過ちは二度と起こらないでしょう。意識せずして過去の過ちを忘れ去ってきた私自身を含めた多くの日本人の反省です。
 
なぜフィリピン なぜ韓国なのか   
 生協運動に関わる私達が、なぜアジアとの連帯を進めようとしているのかについて機会あるごとに問題提起をしてきました。しかし、まだ十分に理解されているとは思っていません。安全な食べ物を共同購入だけで良い、今生協として取り組まねばならないのは私達の国内生産者を守る運動だけで十分ではないか。なぜアジアなのかと…・。

 今、この疑問を私達そして生産者の中で話し合うことがとても大切なことだと思っています。一人ひとりの市民として素直な気持ちで理解しあう場に参加して頂ければと願っています。そして、ご自身でアジアの歴史を振り返ってみることが問われるかと思います。今、しなければならないことは何なのか。自分達だけの事でよいのかと。

 私の日本語は正しいですか? と問いかけられた韓国のご老人達の優しい語りかけをきっかけに我が家のパンドラの箱は葬り去ることができました。この9月には家族で韓国訪問を実現できました。未来に向けて、そして心の奥底で気にかけながらも口に出すことができない体験を持つ方々のためにも、なぜアジアなのか問いかけてください。


車牧師のメール 投稿者:金丙鎭  投稿日: 2月 5日(火)23時34分45秒

金丙鎭です。
山口さんに個人的に翻訳して転送しようと思ったのですが、関心を持っておられる方も多いだろうと思って掲示板に掲載しておきます。メールですが、公にしてもいいだろうと勝手に判断しました。あしからずご了承ください。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 送信日時 02/02/05 (火) 22:13
 山口さんに
 無事に帰国されたことと思いました。良い時間になったことを私も有難く思います。
 但、クーちゃんが疲れている姿で帰国するのを見た時、つらかったですが、実際、帰国後の明るい顔で撮った写真を見て私の心も明るくなりました。
20日の日大阪空港(関空のことだと思います―訳注)に着きます。トヤマ(?―間違っていると思うのですが、名古屋でしょうか?)空港に行く飛行機は水曜日にはないとのことで、大阪から車に乗って行かなければならないようです。
 一緒に同行してくださるとのことでこの上なく嬉しいです。
 多分午後に発つようになりそうです(18-20日、ニアグラム(?―訳者)の講義があって、20日、早朝に終えようと思っています)。詳しい時間が決まれば、ご連絡さしあげるようにします。  さようなら。  車興道(チャフンド)牧師
 (金さん、またお世話になります。煩いが続けて苦労をお願い致します)
――――――――――――――――――――――――――
 以上です。金丙鎭。
http://www.nurs.or.jp/~kbj/


山口さんへ
金永東兄関係の情報です。―――――金丙鎭

■ 略歴(金永東泉北公演会のパンフレットより)
?・25動乱(朝鮮戦争)の渦中、家族の疎開先となった忠清南道で生まれた金永東は、ソウル大学音楽大学を卒業後、分断に呻吟する民族の恨(ハーン)を伝統音楽の旋律に託し、「オディロ カルコナ(どこへ行こうか)」で一躍注目を集めた。ベルリン自由大にて比較音楽を学び、「私たちのソリ(音)」を求め、「森浦に行く道」をはじめ、日本でも紹介された「曼荼羅」、「アダダ」、「九老アリラン」など、韓国の代表的映画の音楽を担当した。また「檀君神話」、「土地」(原作朴景利)、詩人金芝河の詩を素材にした音楽劇にも取り組み、大韓民国作曲賞、大鐘賞音楽賞を受賞している。

■ 私(金丙鎭)との間柄
1980年前後のころだったと思います。当時私は延世大学の学生で、金永東兄はすでにスターダムに上っていた人ですが、延世大学やその他の大学の「タルチュム班(伝統仮面踊りのサークル)」を指導しているころでした。
私はいつも先輩たちには恵まれていまして、金永東兄も音楽論議で私と意気投合し、以降何かと面倒を見てくれるようになり、私の結婚式のときにも来ていただきました。当時、家内は私が有名人と親しいということに驚いていましたが。
そして83年に私は軍情報機関に連行されたのですが、幸い、金永東兄は当時の西ドイツに留学中で難を免れました。国内にいたら金永東兄も連行されていたことでしょう。

以後、私と私の家族が86年に日本に脱出し、88年に韓国保安司令部の情報工作政治や拷問の実態を暴露したころ、兄は帰国していたのですが、私は一切の連絡をしませんでした。当時韓国はまだ軍事独裁の時代でした。私との連絡が発覚すれば金永東兄は間違いなく当局の迫害を受けます。今思ってもとんでもない時代でした。
やっと連絡を取ろうと思えたのは韓国の大統領が金泳三になってからのことです。軍人ではない大統領が生まれてやっとのことでした。

夏でした。兄は国際電話で、「今どこにいるのだ!」と叫ぶように尋ねました。
「日本の大阪にいます」と返事をすると、「今から行くから待っていろ」と言うのです。さすがビザを取らなければならないのでその日には来られませんでしたが、3日後に婦人と娘さんを連れて関空に降りてきたのです。

日本で孤独な生活をしていたので、兄の訪問はどれほど心のよりどころになったか分かりません。
当時は「国に帰りたい」、そのことばかりを願っていました。「軍事機密保護法違反」ということで体よく国外追放されている状態でしたから、その思いはなおさら募っていました。
何年ぶりかの再会を果たした私は、金永東兄に涙交じりに帰国を訴えました。ですが、金永東兄の返事は私にとってつれないものでした。

「お前が日本にいるのは、天がさているからだ。日本でやることがあるから天はお前を日本にとどめている」
ハヌル(天)という韓国人にとって至高の存在まで持ち出してそう言うのでした。

不思議なものです。たぶんに韓国人は霊的でもあります。このつれない言葉は、その年の秋、生協の川島さんからハングル講座の話を持ちかけられ、地域の人々との交わりを作って行く中から、見事に実証されました。多くの方々の力をいただき、音楽公演、韓国舞踊公演、障害者による日韓交流、そして尊敬してやまない金芝河先生の大阪訪問を現実のものとしてきました。また、一昨年には多くの方々の署名をいただき、私の15年ぶりの帰国が叶うという、奇跡まで起こしてくれました。

そして奇跡はこれからも起こると確信しています。市民が中心となり、韓国との交わりを深めていく中で、際限なくこの奇跡は続くと思っています。

まとまりなく書きました。参考にしてください。(2002年2月)



 
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