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2005-03-09

エスコープフォーラム(講演資料)

大津波は貧窮の民を選ぶ

スリランカ島の渚より

中 村 尚 司 2005/01/25
 


  
初めての地震体験

2004年12月24日の早朝、シンガポールからコロンボ空港に着き、入国管理を受ける長蛇の列に加わった。隣の列に並んでいた、滋賀県立大学の應地利明教授に声をかけられる。新聞記事のおぼろげな記憶を頼りに、「京都賞のご受賞おめでとうございます」と祝意を表明する。「いや、貰ったのは京都新聞社賞で、京都賞とは金額が違いますよ」と訂正された。

「一橋大学の科学研究費で停戦後のスリランカ和平に関する調査に来ました」と来島目的を話すと、應地さんは「昨日着いた京都大学建築学科の布野修司さんと一緒に、明日からユネスコの世界遺産に登録されたゴール市の調査を始めます」という話だった。布野さんとは、東京にいたころ日本居住学会や寄せ場学会のシンポジウウムなどで一緒になったことがあり、懐かしく思い「よろしくお伝えください」といって別れる。

税関を出たところで、珍しく日本山妙法寺の浅見行見師に会う。過去20年間、毎年のように京都の拙宅に来駕され、住職をしているアンパーラ寺に来て欲しいと招かれていた。昨年8月に、ようやく約束を果たした。「浅見さんが建立されたアンパーラの仏舎利塔にお参りし、野生象の群れに遭いました」と報告する。「南部海岸のウナワトナ岬に新しい仏舎利塔を建立するため、アンパーラを留守にしていました。来年の2月23日に落慶法要をします。ご参席ください」という話だった。偶然とはいえ、お二人とも被災地に向かわれた。

12月26日(日)の朝7時頃、コロンボ・プラザ・ホテルの7階に滞在していた私は、日本で経験した多くの地震のように激しくはないが、大きい緩慢な揺れに気づいた。スリランカでは起こるはずがないのに、地震に間違いないと思った。長い揺れが3分間ほど続いたのに、避難のために非常階段から駆け下りようともせず、ただ漫然と過ごした。数時間後に安否を問い合わせる電話がかかってくるまで、地震のことはすっかり忘れていた。慌ててテレビのスイッチを入れて、激しい津波の映像と被害の大きさに驚いた。

すぐにスタデイ・ツアー集団が訪問中の北端の町、ジャフナにあるアジア太平洋資料センター(PARC)事務所に電話する。加入電話と携帯電話の双方に何回かけても、混信ばかりでつながらない。コロンボ在住の田村智子さん(青年海外協力隊OG)が彼らの宿舎に電話を入れて、支配人から一行の無事を確認した、と知らせてくれる。一行が無事コロンボに帰着した28日の夜、PARCとしての対応策を相談する。

被災地を訪ねる

29日に医薬品の購入など、コロンボでできる緊急支援活動に取り組む。30日に帰国するスタデイ・ツアーの参加者と別れたあと、ジャフナ事務所の今成綾子さんと一緒に、抗生物質や消毒剤を車に積み、ヴァヴニア経由で北部州に向かう。反政府勢力の行政府があるキリノッチの町で、夜までにスリランカ陸軍の検問所を越えて、ジャフナへ帰るという今成さんと別れる。TECH事務所で代表のナヴァラトナラージャさんにコロンボから預かってきた義捐金を届けるとともに、北部州の被害状況を聴く。

31日の朝6時半にTECHの車が迎えに来て、東海岸の被災地を見に行く。まず海岸から10キロくらい離れた被災者のキャンプ(校舎を転用)に行く。ここには1000名くらいの避難民が収容されている。救護班に行くと、津波の負傷者は、下半身に傷を負っている場合が多い。LTTEの女性軍医が、運ばれてくる負傷者の救護にあたっている。彼女は内戦のために高等学校にも行けなかったが、戦傷兵の手当ての必要から一定の医学知識を持つようになったそうだ。運ばれてくる子どもの足の傷口から、てきぱきと異物を取り出し消毒する。そして、破傷風の予防注射をする。大学で教育研究に携わり、修士号や博士号を出しながら、急場では何の役にも立たない自分の無力を痛感する。

医薬品不足は、ここでも深刻である。内陸部は被災していないので、食料・衣類・飲料水などは比較的安定的に供給できるという。海岸の県庁所在地ムラティブ市に行く。漁業協同組合連合会事務所では、瓦礫と化した建物のそばに数台の水産物運搬車が放置されている。まだ家畜の死体処理には手がまわらないらしく、その腐臭が激しい。被災地区の悲惨な状況を写真に撮る。LTTEの兵士が瓦礫に埋まった遺体の捜索や埋葬に従事していて、人物を特定できるような写真は撮らないで欲しいと言われる。

ムラティブ病院に行き、ダルメンドラン医師に会う。800の病床しかないこの地方病院に、12月27日だけで800の遺体が集められ、検死をするだけでも大変だったという。通常の抗生物質では効果が見られない悪性の肺炎が広がり、今朝も3名が死亡したという。できたらLTTE支配地区で入手できない下記の3種類の薬品
@ZINAZEF 250箱、
AFORTUM 250箱、
BCYPROFLOXACIN 250箱
のほか、病人の栄養食には缶詰が好都合なので2000缶届けて欲しいという。

 マンクラム街道沿いにあるビッティアルタ・カレッジにムラティブ県の緊急支援本部が置かれている。LTTE政治局のスダマスター、 LTTE企画局のマーラン、県知事、副知事などが集まって対策を立てていた。スダマスターは2002年8月にLTTE政治部門代表タミルチェルバン氏と面談したとき、同席していた人物だ。私のことを良く覚えていて、次回キリノッチに来る期日を知らせてくれという。

マンクラム街道沿いには、オクスファム、ケア、レッドバナー、フォールート、セーヴ・ザ・チルドレン、ワールド・ヴィジョンなど、大手の国際NGOの救援物資の車列が続く。それ以上の数で、プランテーション労働組合のチャンドラーセーケラン派の貨物自動車が、雨の中に隊列を作っていた。労働組合員も10数台のバスに分乗して、漁村の遺体捜索と埋葬を手伝っていた。多くの人は南部山地のハットン・マスケリア地区から来たと言っている。インド系タミル人とスリランカ系タミル人との連帯をもたらした津波でもある。

14時半にキリノッチに戻り、若干の打ち合わせをした後、ヴァブニアに向かう。セーワランカ財団ヴァブニア支部で用意してくれた車に乗る。しかし、運転手が寝不足なため休養したいという。無理をしないようにと言って、バス・スタンドからコロンボ行き急行バスに乗るが、急行とは名ばかりでコロンボに着いたときには、新しい年が明けていた。

年が明けても相変わらず、「被災地救援のために何をすればよいか、中村さんと共同で取り組める事業はないか」などという電話が続く。ホラナ市にある故T.P.グナワルダナの菩提寺の住職がその典型で、毎日のように電話が来る。ボクと組めば多額の救援資金が得られるにちがいない、と思い込んでいるようだ。

鉄道は当分復旧の見込みがないけど、1月2日から南部の被災地であるゴールに路線バスが走るそうだ。たとえ支援できる見込みはなくとも、百聞一見にしかずと考え、ホテルの前から路線バスに乗って行く。モラトワ駅前で、ゴール行きに乗り換える。

モラトワ市以南の海岸沿い地区は、何らかの被害を受けている。海沿いに走る鉄道の線路は、枕木ごと数メートルも空中に持ち上げられている。復旧にかなりの月日が必要となろう。バス車内も道路も混み合っている。道路倒れた家屋の後片付けが不十分なため、ところどころでブルドーザーによる瓦礫の除去が済むのを待つ。

リゾートのヒッカドワを過ぎたところの橋が壊れているため、アンバランゴダから内陸部に入り、バッデガマ経由でゴールに着く。日本の台風や自身の経験と異なり、被災地の境界線が歴然としている。海岸線から1キロか2キロ離れると、津波被害とまったく無縁な暮らしである。ゴールで何人かに聞いてみると、だれひとりとして地震の揺れを感じなかったという。

突然海が持ち上がり、水が来襲したという被災地住民と、TVを見てあわてて海岸近くに様子を見に来たという内陸部住民に2分される。ゴールバス・ターミナル近くの街はほとんど破壊され再建が困難かと思われるほどだ。他方、オランダ東インド会社が建設したフォートや昨年完成したゴール県庁はほとんど破壊されていない。午後7時に帰りのバスに乗り、11時に帰着する。往復10時間のバス運賃が108ルピー(約100円)というのは、いかにも安すぎる。

被災の特徴と支援の課題

スリランカでは、長年地震や津波の経験がなかった。古代の史書には、2100年前の大津波が記録されている。また、2003年6月にはJICAによる地震計設置の技術協力事業も完了している。しかし、誰もまじめに取り組む必要を感じていなかった。

今回のスマトラ沖地震については、震度2ないし3程度の揺れがあったにもかかわらず、私の知る限り、地震に気づいていた人はほとんどいない。被災地区に行くと、大津波による沿海地域住民(約100万人)の甚大な被害と、直接的な被害のない内陸部住民(残りの1900万人)の日常生活との相違が、きわめて顕著である。海浜から2キロ以上内陸部に住んでいる人びとと面談したところ、ほとんどの人がテレビや電話などで間接的に津波の来襲を知り、親戚や知人の安否を知るため海岸に駆けつけたと話していた。

段階的に被災の程度が変わりながら、地域的な広がりを持つ日本の地震、台風などの被災地の経験では想像できないほどの、境界線が明白な被災格差である。いいかえると、通常の生活が行われている内陸部では、学校、寺院、教会などで被災者を受け入れ、緊急に必要な飲料水、食料、衣類などを提供することができる。緊急支援に運ばれてきた弁当が多すぎて、やむなく捨ててしまった被災地区も出たほどである。

最も大きな被害を受けた東部海岸には、津波以前から生活条件に最も恵まれない人たちが住んでいる。産業としては、水産業の被害に偏重している。漁民の詳しい被災状況については、別紙の水産相からの要請を参照されたい。漁民・漁村への緊急支援と水産関連施設の復旧が緊喫の課題である。同時に、家屋、学校、道路、橋梁、鉄道などの基礎的な生活基盤が一挙に流失した事態を契機に、被害を受けなった西部海岸と同じ程度の基盤整備事業を実施する好機でもある。

津波被災をきっかけに、民族、宗教、言語などの違いを越えて復旧に協力しようと言う気運が高まり、各党派が共同の復興目的のために政治的な対立を1時的に棚上げしてしようと表明している。この意味では津波が、和平の推進に好ましい要因を作り出したといえる。他方、LTTE指導部がタミル社会では下層のカライヤールという漁民カーストを出自としている事情から、その基盤とする漁民社会と海軍組織が弱体化した機会に、軍事的に壊滅しようという好戦的な意見もシンハラ社会には生まれている。また、外国軍隊の緊急支援活動が、軍事的な諜報工作に悪用されないかという危惧もLTTE側にある。

日本のNGOによる復興支援への協力は、政府機関のみならずスリランカ社会のさまざまな階層から歓迎されている。特に、北東部州における漁民や水産関連業への支援が期待されている。

(2005年2月26日エスコープフォーラム当日資料より 中村尚司さん提供

※ インド洋大津波支援の現場で学ぶ「街・人・出会い」の大切な第一歩の始まり
  




 
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