病害発生は、フィリピンの歴史とも無縁ではありませんでした。スペイン(1521〜1898年)、アメリカ(1898〜1941年)、そして日本(1942〜1945年)と他国の植民地でした。
その間、少数の大地主が広大な土地を使用し、大勢の労働者を支配する構造でした。地主の言われるままの労働をこなすことしか知らなかった階層が90パーセントを超えるなかで、日本に向けて換金作物となったバランゴンバナナの収穫を続けました。
手に入れたお金は、子供たちに3度の食事、学校に行かせる、服を買うなど今まで出来なかった暮らしをまかなうことに使われ、夢はさらに大きく膨らんでいきました。
同時に山ではバナナに変化が起こり、成長が止まり枯れる現象が頻繁に発生し始めていたのです。収穫は出来ても、次の収穫に向けて農地への肥料散布や管理が出来ていなかったのです。
出来ていなかったのではなく、方法を知らなかったのです。日比両国で様々に研究と議論が沸き起こりました。活性水、有機堆肥づくりや他の農産物の生産奨励が始められました。