会館内は「撮影禁止」。展示物の中から参考となる照会文を書きとめてきました。
◆◆農民の自立を目指して −立体農業の提案−
賀川は「日本の国が山国であろうと悲観することはない。立体農業に生きる道がある。」と考え、人口問題、食料問題、土地問題、凶作問題を解決する総合的な方法として立体農業を提案した。この方法や技術は、専門家によって農民福音学校で農民に教えられた。賀川はベストセラーになった「一粒の麦」の中でも立体農業を描いた。さらに百万部を超えた農民の雑誌「家の光」に掲載された「乳と蜜の流るる郷」にも取り上げた。こうして自立を目指す全国の若い農民たちに農業の具体的な方法と明るい夢を与えた。
◆◆ロッヂデール協同組合(英)
イギリスのロッチデールで始められた生活協同組合は、組合員資格の平等や利用高比例の利益配分などの原則で世界中の生協運動に大きな影響を与えた。賀川はここの生協から学び、日本の生協活動を起こした。
◆◆ファーブル(仏 1823〜1915)
ダーウィンは「種の起源」の中で生存競争を唱えたが、ファーブルは「昆虫記」で−秩序と調和のある共生の世界−を描いた。賀川はファーブルに真理があると見ている。
◆◆ライファイゼンの協同組合(ドイツ)
ドイツのライファイゼンはロッチデール原則を改良して農村信用組合をつくり、金融によって得た利益を組合員の最も貧しい者に生業資金として無利子で貸し与えた。賀川はこの方式からも深く学び日本の生活協同組合づくりに努力した。
◆◆購買組合の創設と発展
協同組合による理想社会の建設の第一歩は、1919(大正8)年8月の購買組合共益社(大阪)の設立で、賀川は理事に就任し指導に当たった。共益社は時代の要求に合致していたとみえ、瞬く間に組合員は1300人を超えたが、その運営は困難だった。翌1920年10月に神戸購買組合を創設し、1921年には灘購買生協をつくった。神戸購買組合の経営は順調で、1948年(昭和23)年に神戸生活協同組合と名を改めたときには3万4千人余の組合員数となった。1962年(昭和37)年には灘神戸生活協同組合となり、現在の「コープこうべ」へと発展した。
◆◆ブラザーフッドエコノミックス(友愛の経済)の提唱
賀川は、協同組合は階級間にのみ行われるべきものではなく、国民のすべてが利用すべきものであり、それはさらに国際間にも用いられるべきものであるとして、国際協同組合の設立を提唱した。賀川はキリスト教伝道を目的にした外遊のたびに共同組合の必要性を説いて、中国の合作社(協同組合)の運動、欧米の協同組合運動にも大きな影響を与えた。
◆◆協同組合による日本再生
産業組合や消費組合を再生させようと1945(昭和20)年11月、「日本協同組合同盟」を結成、賀川が会長に就任した。生活協同組合関係者だけでなく、農林水産業、医療協同組合関係者のほか、学者らも集まった。この活躍が農協法・生協法などの成立に力を及ぼし、農協・生協などの組織を生んだ。1951(昭和26)年には「日本生活協同組合連合会」を創立、賀川は会長となった。この組織はICA(国際協同組合同盟)に加盟して世界とつながった。まさに賀川は協同組合再生の父である。
◆◆平和思想の形成
賀川は徳島中学校時代から木下尚江・阿部磯雄らのキリスト教社会主義者たちの平和論や、トルストイの非暴力主義に共感して日露戦争に反対の態度を表明した。ジョン・ラスキンの自然や労働に対する見方、カントの世界平和論、シュバイツァーの人道主義や生命を厳粛なものとする思想からも影響を受けた。いうまでもなくキリスト教の隣人愛という考え方を基礎として、個人や国家が暴力や軍事力を使用しないで相互に協力する平和な世界を築き上げようとした。
◆◆1955(昭和30)年ノーベル平和賞候補者に推される。
(徳島県鳴門市大麻町 賀川豊彦記念館展示物から書き写しました)
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